【映画レビュー】奇蹟がくれた数式|インドとイギリスと学問のすすめ

みなさんこんにちは、数学はさっぱりなモズークです。

今日はなんの予備知識もなしに、「奇蹟がくれた数式」を観てきました。

映画を観てみて感じたのは、ある程度は学問を身に着けておかないと貧困や価値観の違いによるいざこざに巻き揉まれやすくなるということです。それは反対からみれば、すばらしい学問の前では国籍や宗教や人種や年齢は関係なくなるということにもなります。

そして思い浮かんできたのが福沢諭吉の学問のすすめでした。

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数学の変態と天才は紙一重

この作品の主人公ラマヌジャンは簡単に言えば数学オタク、数学変態、数学マニア、そして天才です。ラマヌジャンは朝起きたら神様から教えられたかのように感覚で数式を発見することができます。まるでアカシックレコードに繋がっているかのようです。

しかし彼はその数式が本当に正しいかどうかを証明することができません。なぜなら、神様が教えてくれた数式だから証明する方法がわからないのです。

なぜ問題が解けるかわからないけど答えがわかる。なぜ打てるのかわからないけどホームランが打てる。天才と言われる人たちにはこういう傾向があると言われています。ラマヌジャンもそういう類の天才でした。

ラマヌジャンの数式は素晴らしいものだけれど、本当に正しいのか証明することができなければ人類のためには使えません。その才能はやがて運命に導かれるかのように、イギリスの大学の数学研究者ハーディのもとへとラマヌジャンを導きます。

そこでラマヌジャンは数学における証明の重要性と教えられます。最初はハーディと反発することもありましたが二人は次第に打ち解け合います。

数学の真理の前にはすべての壁が取り払われる

音楽に国境はないと言いますが、学問にも国境はありません。

数学者はこの世界のすべてを単純な数式で表すことを目標に日々研究しています。そして研究の末たどり着くのが、世界の真理の片鱗を見ることのできる数々の数式です。その究極までに単純化された数式の前では、国境も民族も人種も無意味になります。

数学が見せた真理の前では、インド人とイギリス人という枠組を超えて、ラマヌジャンとハーディを親友にすることは簡単なことでした。

しかし一方で数学などの真理を目指さない者たちの間には見えない壁を作ることになる場合もあります。それは不幸にもラマヌジャンと妻に起こってしまいます。

貧しさを解決するのには学問しかない

どんなに愛し合っている恋人や夫婦や親子ですら、教養のレベルの差がありすぎると見えている世界が違うために価値観を共有できなくなります。

ラマヌジャンはイギリスで研究、ラマヌジャンの妻と母はインドで離れて暮らすことになります。離れた夫婦が連絡を取り合うのに手紙が必要になります。しかし妻は字が読み書きできないので代筆を頼んだ上に、手紙の出し方も知らないため郵便も他人に頼まなければなりません。

人間は面と向かって話すときですらすべてを言葉で伝える事はできないというのがわたしの持論です。まして手紙で文章、しかも本人以外が書いた文字では伝わる可能性はさらに低くなります。

またラマヌジャンの母親がラマヌジャンが妻をイギリスに呼び寄せたら自分が見捨てられるという勘違いから手紙を隠してしまいます。そのため手紙の届かないラマヌジャンと妻はお互いに気持ちが離れてしまったと勘違いするのです。

これも母親の教養が足りないために、インド人はインドを出ることができないと思いこんで起こった悲劇です。せめてラマヌジャンの妻が手紙の出し方さえ覚えれば、イギリスとインドの音信不通は起こらなかったでしょう。

学問は世界を広げ価値観を共有しやすくする

学問を学ばずに生きていくことは、生きている世界を狭くしか見ることができません。見えている世界が狭いということは、相手の見ている世界を共有することが難しくなります。

数学に無限の価値を見出し、それを使えば豊かな生活ができると考えるラマヌジャン。しかし数学がなんの役に立つかわからない妻にとっては、数学は自分への愛情を邪魔する憎い対象としか思えません。そして憎しみから激しい感情に身を任せてしまい、冷静な行動ができなくなってしまいます。

これは我々の日常生活でも起こっていることです。お金を稼ぐために仕事に没頭する夫を、妻は自分に冷たい冷血漢のように思い込む。たしかに必要以上に仕事に時間を割くことは避けたほうがよいとは思います。しかし妻も仕事への理解が無くては、お互いの価値観は共有できないでしょう。

異なる環境で育ってきた者同士が価値観を共用するためにはある程度の教養が必要になります。そんな教養を身につけるにはやはり勉強しかありません

福沢諭吉の学問のすすめ

福沢諭吉の学問のすすめはこんな言葉から始まっています。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

最近はこの部分だけを拾って人間は平等でなければいけない、と説いている人もいます。しかしこの文の後を読んでいくと、本当の意味は違うことがわかります。

「天は人をみんな平等に作ったと言うけれど、実際は生まれや身分で格差があるのはあたりまえだよね。でも学問を学んで人生や仕事に活かせば、生まれに関係なくその差を縮めることができるようになるよ。だから勉強して教養を身に着けよう。」

これが本当に福沢諭吉が言いたかったことです。勉強もせずに何もしないでいては、身分の差を超えて平等になることはできないのです。

ミスリードなのか勘違いなのかわかりませんが、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は間違った極端な平等主義に利用されています。いつかブログでこのことを書こうと思っていたのですが、ちょうどこの映画を観て思いついたので書いてしまいました。

勉強は世界を広げる

脱線しましたので話を映画に戻します。

ラマヌジャンのような直感的な天才でも証明の方法がわからなければ狭い世界に生きているのと同じです。自分の発見した数式を証明する方法を覚え、自分の数式が間違っていると認めさらに数学者として成長できました。

ラマヌジャンのように天才でなくてもできる範囲で勉強し、教養を高めていくことができればみえる世界を広げることができます。みえる世界が広がれば狭い世界のこだわりや思い違いに気をとらわれなくなります。

この映画の場合は数学がラマヌジャンとハーディ、イギリス人とインド人、貧しい家柄と裕福な研究者、神を信じる者と無神論者など数々の壁をなくす役割を果たしました。

そんな意味でも勉強こそが本当の意味で平等を実現する道じゃないかと考えさせられた作品でした。

奇蹟がくれた数式 総評

ストーリー:いろいろ考えさせられる内容だったので16点
演出:とくに目新しさはないが安心して観ていられるので12点
配役:ちっこいおっさんのリトルウッドがかっこよかったので14点
映像:イギリスってあんなに天気良かったっけ?でも空気感はよかったので12点
音楽:インド音楽が心地よいので16点
総合:70点

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