【映画レビュー】この世界の片隅にを2回観て気づいたやさしさのお話

こんにちは、ネットの世界の片隅にたゆたっているモズークです。

少し時間があったのでこの世界の片隅にをまた観てきました。
1回目を観終わったときにはただ呆然として夢の中にでもいるかのような状態でした。
なぜこんな状態になったのかわからなかったので気持ちをちゃんと整理するためにも観たかったのです。

結論から書くと2回めでは1回目観たときには気づけなかった、すずさんのやさしさが映画全体に溢れていることに気づきました。
その優しさに気付くと、ほぼすべてのカットやシーンに意味があり情報量がとんでもないことがわかりました。
その膨大な情報量を目、耳、心で感じつつも、頭では意識できず処理できなかったことが観終わったあとで呆然とした理由なのかなと自分なりの分析でした。

頭のいい人は1回観ただけでこの映画の情報量を受け止めることができるのでしょうが、わたしのような頭の悪い人間には間違いなく1回では理解できることができません。

ではこんなふんわりした絵柄の映画のどこにそんな情報が隠されているのかすこし書いています。
ちなみにネタバレになる可能性が高いので、まだ観ていない方はすぐこのブログを閉じて映画館に急いで下さい。

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すずさんの右手はすずさんの心であり魂

(以下ネタバレ含む)

すずさんは日頃はぼーっとしていて人に言われたら流されるままに言うことを聞いてしまうようないい子です。
求婚されたら相手が誰かもわからないまま嫁入して一所懸命働いてしまうくらい嫌と言えない性格です。
それはたしかに温和で何事にも順応するともいえますが、別の見方をすれば自分が無いともいえます。

そんな確固とした自分を持たないすずさんが唯一自分を確立するのが絵を描いているときです。
すずさんが絵を描いているときにはすずさんの本音が現れているのです。
妹のために絵を描いて作り話をしているとき、初恋の人の後ろを描いているとき、広島の街を描きにサヨナラを告げるとき、好きだった幼馴染と久しぶりに会い下手くそなサギの絵を描いているとき、間違いなくすずさんは一個人として独立しています。

その絵を描くという行為は右手があるからこそできることで、これを失うことは絵を描くすずさんがいなくなることです。
そのため、晴美ちゃんがあのようなことになって自分の右腕も失っているのに悲しいとも悔しいとも感じることができずに、横で泣いている径子の顔を弟の周作と似ているという見ただけの観察しかできなくなっています。

すずさんは右手を失うことで心も感情も魂もあちらの世界に持っていかれてしまい抜け殻になったのです。

抜け殻のすずさんに入り込んでくる優しさと戦争の暴力

抜け殻となったすずさんに様々な感情や行為が、周りの人物や状況から流れ込んできます。
義母には腕を失ったすずの髪をといて結ってもらい、腕のない不自由さを周りの人々に気遣ってもらいながら触れないようにしてもらい、妹には広島に帰っこないかと声をかけられ、抜け殻になったすずに優しさが流れ込んできます。

そして優しさとともに戦時中の暴力である食糧不足や焼夷弾などの暴力も流れ込んできます。
そんなときに右腕とともにこころと魂を失ったすずさんの身体にある感情が生まれます。

こんな暴力に負けてたまるか、自分なりに徹底的に戦ってやる、強くなってやるという感情です。
それは悲しいほどに前向きであり、自分を追い詰めることにもなるのですが今までのすずにはなかった衝動です。
しかしそんな生まれたばかりのすずの強く悲しい感情も、終戦の玉音放送ですかされてしまいます。

そのときすずははじめて号泣し悔しくて泣き叫びます。
晴美を失い、右腕を失い、やさしさと日常を犠牲にしてまで生まれてきた戦う決意が無駄になった瞬間です。
あのときすずさんが泣いた理由は、戦争で負けたから悔しかったのではなく、自分の優しさを犠牲にしてまで戦う決意を生み出した自分が許せなかったのだと思います。
そんな悔しさや悲しさは紛れもなくすずさんのこころや魂から生み出されたものです。

そのあとに上から誰かの右腕がすずの頭をなでてすずさんは許されることになります。
そのすずさんをなでた腕は誰の腕なのかは言うまでもありませんが、すずさんの右腕です。
失われたすずさんのこころであり、魂であり、やさしさがすずさん自身を許したのです。

人間は誰かに許してもらうのではなく、自分自身で許すしかないのです。
そんな自分を許すすずさんのやさしさがとてもこころに沁みるのです。

すずさんの右腕がすずさんのために作ったお話

ここでわたしはすべてが腑に落ちました。
この物語は冒頭で子供の頃にすずさんが妹のために作ってあげた作り話と同じといえます。
あちらの世界に行ってしまったすずさんの右腕が戦時中に生きるすずさんのために作ったお話なのです。
そのために物語の全てにやさしさが溢れているのです。

わたしがこの映画の悲しい場面で泣けずに、温かい場面で泣きそうになる理由がわかりました。

最後の橋の上で作り話であるバケモノ後ろを通り過ぎるのも、この物語が作り話である証拠です。
戦時中という時代や環境を題材にしたおとぎ話なのです。
ただ現実部分の描写が細かいために、戦時中の資料としてもしっかりとしているので現実であると錯覚してしまうのです。
もちろんそこは意図してぼかしてあるのでしょう。

この映画がすずさんの右腕がすずさんのために作ったお話とすれば、なぜ冒頭の干潟のサギがすずがのちに上手く描けなかったサギみたいな絵だったのか、なぜ自分の描いた絵に自分の後ろ姿を描いたのかなども腑に落ちます。

さらに全てのシーンにすずさんの心情が描かれているのも当たり前です。
当事者である自分自身の心情を描いているのです。

この映画を2回観てわたしはこういう結論に至りました。
正直この深読み考察が合っているか合っていないはわかりません。
この記事を読んで確かめたくなったあなた、もう一度やさしさ溢れるこの世界の片隅にを観に行きませんか?

わたしは近いうちに3回めを観に行きます。

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